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母のゴール

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「お兄ちゃん!お母さんの心臓が止まっちゃった!」

妹からの悲鳴のような声の電話をロンドンで受けたのは2013年1月23日のことだった。

「今すぐ飛んで行くから待ってて!」
パスポートとブラックスーツを持ってヒースロー空港に向かった。
飛び乗った東京行き最終便では一睡もする事が出来なかった。
母はこのまま死んでしまうのか?もう生きている母には会えないのか?
つい数日前電話で元気そうな声を聞いたばかりなのに。
涙が溢れて止まらなかった。心が震えて止まらなかった。
あの時ほどロンドンと東京が遠いと感じたのことはない。

成田到着と同時にマネージャーの携帯を鳴らす。
「お帰りなさい!お待ちしていました!」
マネージャーの声のトーンから母はまだ生きている事を知りホッとする。
無事を祈りながら空港から病院に直行。
ICU集中治療室に向かう。
ロビーで泣きじゃくる妹を抱きしめる。
そして母のいる部屋へ。

母は死んではいなかった。
しかし。

1月23日未明、母から妹へ「心臓の様子がおかしいの」との電話があり、すぐ救急車を呼ぶ。
救急車が到着した時には母の心臓は止まっていた。
病院に運ばれるまでおそらく30分以上、心肺は停止していたであろうとのこと。
妹と二人、医師からの説明を受ける。
長時間心肺停止後の低酸素脳症。
脳幹は生きているものの脳の大部分にに重いダメージを受けた状態であり、
30分も心肺停止したにも関わらず命があること自体が奇跡であるとのこと。
しかし今も危険な状態にあり予断は許さない。肺炎などが併発すれば容態が急変する可能性もある。
脳のレントゲンに写る広範囲に渡る黒い影を見て、僕らの絶望の涙を流した。

医師に問う。

「先生、母は"脳死"という状態ですか?」
「脳幹は生きているので"植物状態"と申し上げられます」
「いつまでこの状態が続くのですか?」
「いつまでとお答えするのは難しい。明日かもしれないし、数ヶ月後かもしれない」
「母に苦痛はありますか?」
「いいえ、多分痛みを感じる神経伝達は行われていないと思います」
「回復する見込みは?」
「残念ながら御回復は難しいと思います」

どの質問に対しても母の未来を期待させる答えはなく、僕らは震えとともに、ただため息をつくしかなかった。

「御家族はこの先、延命治療を御希望なさいますか?」

医師からの問いに僕らは戸惑った。
一秒でも長く生きいてほしいとの気持ちと、これ以上母の身体に強いショックや負担をかけたくない、との思いが交錯する。
母ならなんと答えるだろう。
「そんなことはやめて。みんなにこれ以上心配や迷惑をかけたくないから」
きっとそう答えるに違いないと、僕ら兄妹は判っていた。
母の尊厳を守り身体的苦痛を軽減しながらも延命治療はしない。
ターミナルケアと呼ばれる終末期医療および看護の日々を、僕らは選択した。

母の耳元に語りかける。
「お母さん、聞こえますか?寅泰です。ロンドンから帰ってきました。安心してくださいね」
反応はない。
昏睡の中で静かな脈拍だけが生命を伝えている。
「お母さん、聞こえますか?寅泰です...」

母は無言の人となった。

母の声はもう聞けない、と思うと涙が止まらなかった。

僕のロンドンと東京の往復の日々がスタートした。


2月1日は僕の51歳の誕生日だった。
病室の母に花束を持って報告に行った。
「お母さん、今日は51年前、あなたが"お母さんになった日"ですよ。僕を産んでくれてありがとうね」
彼女は以前ポツリとこう語ってくれたことがある。
「私の人生で一番幸せだったのはあなた達を育てていた時間だったわ」
娘を持つ一人の父親として、母のその言葉が今、痛いほどわかる。
高校を中退したり、突然家を飛び出し仲間とアパート暮らしを始めたり、
プロのミュージシャンを夢見て上京、何度も心配や迷惑をかけてきたけれど、
僕は最後に母の自慢の息子でいられただろうか?
「以前入院なさった時"私の息子はああ見えて、とっても優しい心をもった人なんですよ"と皆におっしゃってましたよ」
と看護師さんから伺った時は嬉しかった。「"ああ見えて"は余分だろう」と心で呟きながら。
昨年の50歳記念の"さいたまスーパーアリーナ"公演には車いすで参加してくれた。
「自分の息子が50歳なんて!信じられないわ」と笑っていたのを思い出す。
多くの人々に祝福された息子を見て、母は嬉しそうだった。

そんな母も2月6日、病室で80歳の誕生日を迎えた。
その日は僕の新作「COME RAIN COME SHINE」の発売日であった。
「お母さん、おめでとう!」のメッセージを添えたCDを枕元に届けた。
ロンドンで撮影したジャケットを指差し
「ロンドンの空はね、いつもこんな風に晴れたり曇ったりを繰り返しているんだ。
永遠に続く雨はなし。雨の後の眩しいばかりの青空を目上げると、人生もまるでこの空のようだなと思えるんだ」
病室に小さく響く僕のロックンロール。
"Never Say Goodbye"の歌詞が切ない。
  
  逢いたくても逢えない日も 心と心は
  深い絆で繋がっているから

  Never say goodbye いつか必ず
  また逢える 信じているよ
  花のような眼差しをありがとう


母が旅立つ日まで、僕の心が晴れる日はなかった。


ロンドンに移り住んで約5ヶ月。
ようやく生活ペースもつかめ始めた頃だったが、僕は可能な限り母の側に居ようと決めた。
東京では「あれ?布袋さん、また帰ってきたの?」などと声をかけられ、
事情を告げることもできず少しバツの悪い思いをしたこともあったが、
こんな時、母親との最後の時間を一秒でも長く一緒に過ごしたいと思う気持ちは誰もが一緒だろう。
そんな中ツアーのリハーサルが始まった。

メンバーには母が入院していることは伝えたが、深刻な状態だとは伝えずにいた。
とある日、リハーサル最中にマネージャーがスタジオに飛び込んできて
「病院から電話です!すぐ向かってください!」と深刻な表情で言った。
その夜母は不整脈と長い無呼吸を繰り返す極めて危険な状態であった。
「今夜が峠だと思います。御家族もその時を覚悟なさってください」と医師からの重い言葉。
妹の家族と僕は徹夜で母の容態を見守った。
奇跡的に母は峠を越え、緊迫した状態から脱する事が出来た。
次の日のスタジオでバンドやスタッフに母の容態を告げた。
もしツアー中に母が亡くなってもコンサートは中止しない。それは母の本意ではないはずだから。
そのかわりツアーの移動行程をできるだけタイトにして最終便でも東京に戻り、母のそばに居させてほしい、
とお願いをした。

『Rock'n Roll Revolution Tour』は「熱狂と静寂の繰り返し」だった。
楽屋の母の写真に向かって「行ってくるよ。待っているんだよ」と手を合わせ祈る。
開演時間が近づくと、客席からの布袋コールが楽屋まで聞えてくる。
それぞれの思いを胸に抱いて集まってくれたオーディエンスの元に、僕は帰る。
幕が上がり光がうねり、僕は音となる。
母の日のライブの"Fly into your dream"は母に捧げた。
母に届け!と全身全霊、魂で歌い奏でた。
観客には汗にまみれて涙は見えなかっただろう。
熱狂的な布袋コールを背にステージを降りる。
メンバーと「今日も最高だったよ!」と乾杯を交わす。
楽屋の扉を締め、母の写真に手を合わせる。
「ただいま。今日も最高だったよ」
と報告すると、母の笑顔が空気中に一瞬広がるのだった。
コンサート会場から車や新幹線に飛び乗り東京へ。
興奮冷めやらぬまま向かうのは母の待つ
世界で一番静かな部屋だった。

母の僕に対する口癖は「大丈夫?」「ちゃんと食べてる?」「ありがとう」の3つだった。
群馬を飛び出し4畳半の独り暮らしを始めた頃、小銭すらなく公衆電話に落ちていく10円玉を数えながら聞く母の声はいつも
「大丈夫?ちゃんと食べてる?」だった。
ガリガリの自称"夢喰い少年"は母の送ってくれた米を炊き、マヨネーズをかけて食べていた。
ライブハウスからスタートし、夢叶った初めての武道館公演は思い出深い。バンドをやりはじめたときは
「プロの世界で勝負するのは生易しいものではない。あきらめるなら早めにあきらめなさい」
と言っていた母が、終演後の楽屋では満面の笑顔で「あなたならやると信じていたわ!」と言い放った。
後にスタッフに聞くと、会場のファンのみんなから「ホテイー!」と名前が呼ばれるたびに、その方向に向いて大声で
「ありがとうございます!」「ありがとうございます!」と応えていたらしい。
デビューから30年。多くの人に支えられ今がある。
母の応援も僕をいつも支えてくれた。

母が倒れる4日前、1月19日の電話もそうだった。
「そちらは大丈夫?ちゃんと食べてる?」
「ちゃんと食べてるどころか、いよいよ僕もカロリーやコレステロールや塩分など気にして食べなければならない年頃だよ」
家族は皆元気でやっていること。ロンドンの冬は酷しく毎朝車の窓の氷かきをやっていること。
冷たい空気は群馬の冬空を思い出すよ。
もうすぐツアーでまた帰るからね。
また観にきてね。
孫たちを連れて、みんなで美味しいもの食べにいこうね。

そんな柔らかな会話の終わりの
「ありがとう。元気でね」
が母の最後の声となってしまった。

次に母と会ったらあれもしてあげたい。これもしてあげよう。優しく笑顔で色々な話をしたい。
温泉にも連れて行ってあげたい。大好きなお寿司も食べにいこう。たまには抱きしめてあげよう。などなど、など。
母への想いはいつも溢れんばかりなのに、会った瞬間に投げやりな態度や、気持ちとは裏腹な冷たい受け答えなど、
思い起こせば母に謝りたい事ばかり。
妹もまた「あの時なぜあんなことお母さんに言っちゃったんだろう」「なんであんな態度で接しちゃったんだろう」
「お母さんはきっととっても淋しくて悲しかったに違いない」と後悔ばかりがあとを絶たない。
しかし言葉で意思表示ができない母に「ごめんね」ばかりを繰り返すのはやめよう。
それを聞いているお母さんはきっと「私こそ、ごめんね」と辛い気持ちになるはずだ。
「ごめんね」の変わりに沢山の「ありがとう」を伝えよう、と皆で約束をした。
妹は痛々しいほど献身的に母のそばで、母への恩返しを努めてくれた。
一生分のありがとうを、彼女は伝えらえたと思う。
母は嬉しかったと思う。

ツアーが終わりひとたびロンドンに帰るも、心は母の元にあった。
真夜中に電話が鳴るたびに飛び起き、母の写真の前で祈った。
楽しい時間の後は必ず辛い思いにかられて胸が苦しかった。
僕が遠い英国の地に移り住んだことで、さぞかし淋しい思いをさせてしまっただろう、と。
しかし後に妹から聞いた話で僕の心は少し救われた。
僕が小学生の頃一度、留学話が持ち上がったことがある。
海外生活への憧れと、友達との別れで揺れる僕の気持ちを察し、母は友達とのお別れ会まで準備してくれたのだが
おそらく父の仕事の事情によってか、結局留学話は実現には及ばなかった。
数十年後、僕が英国へ移り住むと決めた時母は妹に
「あの時行かせることができなかった外国へ、寅泰が自分の意思で向かえて本当によかった」
と言ってくれたそうだ。

無言でも伝わる母の人柄からか、病院でもその後の施設でも、先生や看護師、介護士さんたちには本当に暖かく接していただいた。
「布袋さん!今日もよろしくお願いしますね」と声をかけ、身の回りの世話をしていただく。
親戚も遠くは北海道からわざわざお見舞いに寄ってくれた。
筋肉は固縮しないように、手や足、肩をマッサージしながら皆で母の思い出話をするのだった。
本人が聞いたら怒りだしそうなジョークも交えて、母の部屋は笑い声に包まれる時もあった。
当初は1週間ももたないかと思われたのに、母の命は奇跡的にも一日一日、時を重ねていった。
病室から車椅子にのって春の桜をみることができた。
暑い夏には蝉の声を聞く事もできた。
そして蝉の音が秋の虫の声に入れかわる頃。
母の容態が悪化した。
 
「下顎呼吸が始まっており早ければ数時間、もっても日付を越える事は難しいだろう」
との医師からの通告に、家族全員が集まった。
「ありがとう、お母さん。よく頑張ったね。みんなここに居るよ。」
と皆で手を握りながら、夜通し語りかけ続けた。
みんなの思いが届いたか母は医師に「奇跡としかいいようがありません」と言わせるほど頑張った。
それから1週間も、消え入りそうな細い息で、頑張った。

妹の疲労がピークを迎え、その夜、僕は母の部屋に泊まった。
そして母と沢山おしゃべりをした。
応えはなくとも母には僕の声が聞えているのが判る。
PCから僕のギターをたくさん聴かせてあげた。

ミラーボール、好きだったよね?

一緒にエディット・ピアフの"バラ色の人生を"聴いた。

お母さん、幸せだった?
素敵な恋をしたんだよね。
天国に行ったら誰に会いたい?
もしお父さんに会ったら、許してあげてね。
あの日もし旅立っていたら、僕はロンドンに行った事を一生後悔しただろう。
ありがとうね。
こんなに沢山の時間を僕らに与えてくれて。
ありがとうね。
僕を生んでくれて。
これからもっと頑張って夢を叶えて親孝行するからね。
ずっと応援していてください。

母の額にキスをした。
母にキスをするのはいつ振りなんだろう。
「あらやだ」とちょっと恥ずかしそうな顔をしたように見えた。

窓の外が明るくなりシャワーを浴びに戻る。
夕方からまた家族全員が集まった。
無呼吸の症状はなくなり血圧などの数値は悪くないが、呼吸がとても浅い。
無重力の世界に咲く花のようだ。
そして突然その時は来た。

「ばあば、ありがとう!」
3人の孫達が声を合わせてエールを送っている。

「お母さん、ありがとう!」
僕と妹はそれぞれ母の手を握っている。
母の手を通じて、僕らは一つになっている。

我々は母と手を繋いで、手を取り合って、母の人生のゴールに向かって一緒に歩いている。

その先には祝福の光が待っている。

頑張れ。頑張れ。ゆっくりでいいんだよ。
頑張れ。頑張れ。一人じゃないんだよ。

みんなのエールに包まれて、9月2日、23時43分。

母は旅立った。


母は美しい人だった。

カサブランカのように気品に溢れ、紫陽花のように優しく、向日葵のように眩しい人だった。

棺の中に入っても、その美しさは変わらなかかった。



母は今ここロンドンに居る。

真夜中のベルはもう、鳴らない。

母にパスポートはもういらない。
世界を一緒に旅しよう。
そしてまた日本に戻ったら、皆で暮らした麻布有栖川の公園のベンチに座り
そっと紫陽花の色に酔いしれよう。


母を愛してくださったみなさま、ありがとうございました。

葬儀にかけつけてくださったみなさま、ありがとうございました。

そして僕らを心配してくださったみなさま、ありがとう。

母の愛に包まれて、僕らは今も幸せです。

お母さん、ありがとう。



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今年もよろしく! そして Twitter終了の御挨拶。

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亡母の喪中につき新年の御挨拶は控させていただきます。

12月。
母の49日に戻れなかったので、100日法要の墓参りは必ずしたいと思い、
娘のスクールの校長先生に日本の亡き人へのセレモニーの説明をし許可をもらい、
冬休みを待たず日本に帰国した。
明くる日早起きをして東京駅から上越新幹線に乗り、生まれ故郷の高崎に向かった。
娘と二人で高崎に帰るのは初めてだ。
烏川のほとりにあるお寺さんに御挨拶に伺う。
幼少の頃、大きなうねりすら感じた烏川は想像以上に小さく、
しかしその向こうに見える山々はあの頃の光や匂いや温度や切なさを全て思い出させてくれた。
妹たちとタクシーで30分ほど離れた霊園へ。並んだ多くの墓から布袋家の墓を探す。
母が入った墓は以前とは違って愛おしく、水をかけて洗う作業も、
なんだかベッドの上の母の手をさするような気持ちに似ていた。

「お母さん、遅れてごめんね。ロンドン、ニューヨークでのライブも大成功でしたよ。
 お母さんがずっと僕の側にいて応援してくれたのがわかりましたよ。ありがとう」

隣で娘が手を合わせてじっと瞳を閉じている。
座ってもすっと伸びた背筋が頼もしい。

『母のゴール』と題した最後のブログからなかなか想いを綴る気持ちになれなかった。
確かにあの日が僕ら家族にとっての新たなスタートだった。
ロンドン、ニューヨーク公演、そして東京大阪の新たなスタイルでのライブも
僕にとって新たな自分のスタートだった。
人生はマラソンである事に間違いはないが、トライアスロン、アイアンマンを超える試練の連続。
風を心地よく感じて走るには僕はもう少し時間がかかりそうだ。

2014年。

今年の最初の決断は3年間に渡りほぼ毎日、日常の一瞬の感情や風景を呟いてきた「Twitterをやめること」。
僕にとってTwitterとはファンの皆さんや異業種の方々との交流、「おはよう」から始まり「おやすみに終わる」家族のようなふれあい、
様々な人の心もように触れる事が出来る貴重なツールであった。コンサートツアーの楽屋風景、
インタビューでは誰も訊いてくれないけど誰かに言いたかった事や、
世間一般の僕のイメージ「強面モンスター」にもズッコケでファニーで涙もろいところもあるんだよ、とか、
愛犬との散歩道に見つけた小さな花、季節の色や香り、セルフポートレイトや友人との記念写真、
文化人、知識人の皆さんの深くて切れの良いツイートや政治絡みの辛辣なツイートなど、
毎日Twitterを通じて多くのことを感じ、学び、表現してきました。

昔日記をつけていたとき「日記を書くということを毎日を退屈から解放してくれる」と言った覚えがある。
なにも起こらない日だってあるけど「今日はなにも起こらない静かな一日だった」と記すことで
ドタバタ慌ただしく物事に振り回されがちの日々の中でそれが、とても穏やかで大切な一日であったことに気づく。
Twitterは瞬間的なものだし文字数も限られているから、感覚的でもありロジカルでもある。
Retweetの文字数まで計算してしまう几帳面な自分に苦笑いしたり。

東日本大震災のときは人の命に関わるツイートも飛び交いました。
行方不明の家族や友人が無事に見つかったとの知らせを聞いた時は、やったー!と声を上げて喜んだのを覚えています。
世の中には病に苦しんでいる方々もたくさんいらっしゃる。
手術前の「これから手術室に向かいます」という不安なつぶやきに「手術がきっと上手くゆくと信じています」と返す。
僕が苦しかった時、いつも誰かに励まして頂いたことへの御礼です。
何ヶ月後に「車いすで布袋さんのライブに参加できることになりました!とのツイートを見て、
コンサート当日、ステージからの「会いたかったよ!」の一言には僕なりの想いが詰まっていました。

時には辛口のツイートやケンカ腰のものもありました。
しかし匿名のツイート相手は血気盛んな中学生かもしれないし、僕の音楽を聴いた事もない人かもしれない。
50過ぎの男が若者と言葉で小競り合いするのもみっともないし、相手を傷つけてしまうかもしれない。
自分なりに言葉を選んで対処するか、グッと言葉を飲み込んだきたつもりです。
(とは言え自分も人間ですから、たまに冷たい対応があったとすればごめんなさいね。)
BOØWY時代から始まって、20数年に渡っての長きファンの方々もいるでしょう。
「ロックなイメージ」とはほど遠い僕のつぶやきに苛立つ方も多かったと思いますが、
僕らはファニーでシニカルなジョークが好きで、もしあの頃Twitterがあったら、きっとあちこち炎上だらけだったと思います(笑)。
世は流れ。その時々の主流を捉えつつも、我が道を行くのが私流。
とは言え軽率で外れた呟きにあったとしたら、どうぞご容赦くださいね。
20数万人ものフォロワーがいれば毎日どなたかがお誕生日や記念日を迎えられるわけで、
皆さんにお祝いのコメントを求められても全部に返すのは不可能でした。
あげたりあげなかったりで不公平にならないようにいっそ全部「無理だ!」とお断りすればいいのに、
ついついおめでとう!と言ってしまうのが僕の弱いところ。
でも自分も一言祝ってもらえたら嬉しいものね。
たくさんのツイートに対してお応えできなくてごめんなさいね。

日記は時間の流れを、そしてTwitterは瞬間を見つめるもの。
もちろん一瞬が積み重なって時は流れるのですが、一瞬に支配されてしまうことにもなりかねない。
SNS依存症という言葉がありますが、僕もいつの間にか日常のすべてを140文字に切り取る癖がついてしまった。
ストーリーよりもディテールにフォーカスがいってしまう。
気がつけば目の前の風景をツイートしたくなる。
これは立派な依存症なのかもしれません。

2014年は僕にとって勝負の年。
昨年の11月9日のロンドン公演は、僕の夢に対しての可能性を示す事ができた重要なコンサートでした。
ようやく目の前の扉の先に光が見えた瞬間でした。
ここからが正念場。蒲伏前進よろしく、歯を食いしばって一歩一歩進まねば未来はありません。
ぐうたら癖を直して、本気で自分と向き合い、必ず夢を叶えたいと思います。

Twitter越しの誰かにではなく、これからはもっと自分自身に呟いていきたい。

「どうだい?調子は」
「もっと本気をみせろよ」
「目の前の風景を音にしてみたら?」
「きっと上手くゆくと信じよう」
「ほら、今日も口角をあげていこうぜ!」

長い間僕の呟きを楽しみにしてくれた皆さん、ありがとうございました。
とても有意義な暖かいひとときでした。
心はこのままずっと繋がっていますからね!

今後は原点に戻って、このブログで心模様をお伝えしようと思います。

BC会員の皆さんにはRADIO HOTEIや動画メッセージをより充実させたいきたいと思います。

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2014年が皆さんにとって、健やかで実りある充実した一年でありますように。

本年もよろしくお願いします。


All the best.

Hotei

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Photo by 山本倫子









小渕君 in LONDON

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「今年のロンドンは100年に一度の寒波がくる」
と誰かから聞き、美樹さんは長いダウンコートを購入し準備万端であったが

なんと、ぬくい。

昨年の今頃は毎朝ミニクーパーの窓ガラスの氷かきから一日が始まったことを思うと
このぬくさは意外だ。

昨年、初の渡英前日になんとパスポートの期限切れが発覚するというウルトラCを見せてくれた我が友小渕健太郎君が
UGGとパタゴニアのほとんど雪山装備のような完全防寒仕様で無事に我が家を訪れたものの
ハロッズで半袖短パンの部屋着を大量購入することになるとは予想もしなかっただろう。

コブちゃんの約2週間の滞在は、公園での凧上げ、レミゼラブル観劇、ルーリーのお散歩係、リバプールへの一人旅、サビルロウでスーツ購入、ハロッズのオイスターバーでシャンパン、美術館巡り、僕と娘との3人テニス、そしてなんと僕のローディーとしてレコーディングに参加してくれたり、最終日のディナーは宮崎名物の美味しいチキン南蛮を振る舞ってくれるなど、実に盛り沢山の毎日であった。
彼のブログではロンドン滞在記が写真と共に綴られているようだからファンの皆さんはその充実振りをすでにご存知であろう。

二人でオイスターカードいうPASMOのようなカードでバスと地下鉄を乗り継ぎ、雨が降れば一つの傘を分かち合い、セルフタイマーでパチりと記念写真を撮り、古いパブでビールとビネガー風味のポテトチップスを頬張り、英国紳士の粋な着こなしにため息をつく。
ほんのに甘いカプチーノで温まったら、また雨の街に歩き出す。

「ロンドン、いいあなぁ!」

と彼が笑うたびに、

「ロンドン、いいでしょ?」

と嬉しい僕。

我が家の3階の小さなゲストルームから見るロンドンの景色は、彼の心にどんな色彩を放っただろう。

また来てね、わが町へ。

ロンドンはいつでも君を待ってる。


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THE ROLLING STONESからの招待状

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もしもある日、君のメールボックスにローリングストーンズから

「俺たちのステージで一緒にプレイしないか?」
(The Rolling Stones have asked if you are in Tokyo and if you would want to come on stage and play a song with them one night? )

という招待状が届いたら、君はなんと言う?
そう、僕も君と同じ言葉を呟いた。

「嘘だろ...?」

しかしそれは嘘でも間違いでもなく、現実だった。
もしも君がギタリストなら、ローリンストーンズという伝説のモンスターバンドに呼ばれてギターを弾くことを想像してどう思う?
振り向けばチャーリー・ワッツがクールなビートを刻み、
右を向けばロニー・ウッドが、左を向けばキース・リチャーズがカミソリのようなギターをかき鳴らし、
そして目の前には髪を振り乱して踊りながらシャウトするミック・ジャガーがいる。
きっと想像しただけで鳥肌が立ち、天国にいるような気分になるはずだ。
僕も君と同じだ。
恐怖と恍惚の狭間で全身が痺れ、鳥肌が止まらなくなる。


2012年。
ロンドンに移り住み、初めて観たコンサートはストーンズの50周年アニバーサリーライブだった。
ロンドンで観るストーンズは英国の誇りと象徴そのもので、世界一のロックバンドであると共に高貴なジェントルマン達だった。
初日はジェフ・ベックが、2日目はエリック・クラプトンがスペシャルゲストとしてステージに登場しそれぞれの音色とフレーズを披露した。
まるでロックンロールという燃え盛る炎を暖炉に囲み、神々達が昔話に花を咲かせているような、美しい光景だった。
僕はコンサートグッズの長い列に並び、Tシャツとステッカーを買った。
翌日、ミニクーパーのトランクにステッカーを貼った。


2013年、夏。
僕と娘はハイドパークでデートをした。それは44年振りのストーンズのハイドパーク・コンサートだった。
Start me up!から軽快にスタートしたコンサート。太陽の下のロックンロールは最高だった。
ビートを抱いて踊り叫ぶ観衆を離れて、僕らは会場後方に設置された大きな観覧車に乗ることにした。
僕ら以外に乗車客はなく、係のお兄さんが気を利かせて僕らのゴンドラをてっぺんで停めてくれた。
うねるような何万もの観衆を見下ろして心地よい風を浴びながら、僕らは肩を組んでMiss Youのフレーズを口ずさんだ。
娘が「パパ、ストーンズのポスター買って」と言った。
その一言がなんだかとっても、無性に嬉しかった。その日の夕焼けと共に一生忘れないだろう。


僕はロンドンで文字通り一からのスタートを送っている。
KILL BILLのテーマ曲を知っていても僕の名前を知る人はほとんどいない。
人に会いに行き熱い想いを語り伝え、少しでも僕の存在に興味を持ってもらうしかない。
移住後、僕はロンドンで2度のコンサートを開いた。
2012年のライブは僕の音に対する気持ちの曖昧さが如実に出て、案の定あちこちのメディアから酷評を受けた。
しかし昨年11月に行ったライブは映像とのコンセプチュアルなアプローチが功を奏し、現地の音楽ファンやメディアからも絶賛された。
あの夜、ストーンズの関係者が客席にいたと聞いていたので
今回のストーンズからのオファーはあの一夜のライブの成功から繋がったものだと思う。


穏やかな小春日和の朝、僕はいつものようにステッカーを貼ったミニクーパーを運転しスタジオに向かい、曲作りをしていた。
ワールドワイドでのリリースがなかなか決まらぬ中、もがくような気持ちでギターを弾いていた最中に、関係者からのそのメールは届いた。
「誰にも内密に」とのストーンズからの言葉を守り、叫びたいような気持ちを抑えていたが家族には伝えた。
美樹さんは「あなたの奥さんであることは、本当にジェットコースターに乗っているようなものだわ!」と喜んでくれた。
娘に「パパはもの凄いバンドに招待されてギターを弾きに行くことになった」と言うと「誰?」。

「あのローリングストーンズだよ!」

「Oh my god...」

と目を丸くした後「私にもサインをもらってきてね」と微笑んだ。


そこからはまるで早回しのドキュメンタリー映画のようだった。
急いで航空券を手配し、グローブトロッターにあの時買ったベロマークのTシャツを何枚か入れ、
お気に入りのグリッター・ゴールドのテレキャスターを担いでヒースロー空港のヴァージン・アトランティックの窓口に走りこむ。
機内では興奮して一睡も出来なかった。じっとしていられず踊りだしたい気分だった。
そして僕はローリング・ストーンズに会うために、東京に帰ってきた。


「嘘だろ?」
と多くの方々が今も半信半疑でこの文を読んでいると思う。
なんでHOTEIがストーンズに?と思われても仕方ない。僕だってまだ信じられないのだから。
しかし皆さん、どうぞご寛容に「これもロックンロールのマジックなのだ」と
僕の『嘘のような幸運を』受け入れてやってほしい。
憧れのDavid Bowieや Roxy Musicに続いて、ローリング・ストーンズとの共演までも叶うなんて。


僕は世界一幸運なギタリストだ。

ありがとう。ロックの神様。

ありがとう。The Rolling Stones。

ギターと出会えてよかった。


Life is "WOW!!"


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ストーンズ〜モントルー・ジャズ・フェスティバル

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The Rolling Stonesとの共演...。
そのあまりにも奇跡的かつ生々しい体験から現実に戻れぬまま英国に帰国して間もなく
Mick Jaggerの恋人のローレン・スコットさんの訃報を聞き愕然とする。
ブログにストーンズの事を書く、という気持ちにはなれなかった。

3月6日。
あの日、東京ドームの楽屋で初めて会ったMick Jaggerは溌剌としたエネルギーに満ちあふれていた。
伝説の唇を大きく開いて眩しい笑顔と共に和やかな挨拶を交わした後、
彼は突然チャック・レヴェルのエレピに合わせて目の前で腰をくねらせながら
共演曲の「Respectable」を歌いだしたのだった。
隣にいたロニー・ウッドがエアーギターでソロの場所を僕に合図する。
「次はホテイだ!」とロニーが言うと「いや、ここはキースに弾いてもらおう!」とミックが提案する。
ミックの楽屋で皆が踊りながら「Respectable!」と合唱していたことを誰が信じてくれるだろうか。

数十分後、ステージでサウンドチェックを兼ねたリハーサルが始まる。
キース・リチャードに会ったのはステージの上だった。ずっしりとした握手。深い眼差し。
アンプから突き刺さってくるギブソンの音。
佇まいからなにもかもがとてつもなく大きな存在だった。
チャーリー・ワッツは腕時計の皮のベルトを上品にはずし、軽快なジャズのビートを叩いていた。
キックを踏む足下は磨き上げられたコインローファーだった。
ミックは「Enjoy!楽しもうぜ!」僕の肩を叩いてくれた。
リハーサルでも彼はステップを止める事はなかった。

Show Time !
僕はステージの袖で彼らのショウを見せてもらった。

そしてミックに名前を呼ばれステージに向かう。

後ろにはチャーリーが。両隣りにはロニーとキースが。
そして目の前にはミック・ジャガーがいた。

ここからの話をするのはもう少し時間が経ってからにしよう。
僕のつたない文章でそれを伝えることは不可能だからだ。
5年後、10年後には言葉にできるかもしれない。
いつまでもできないかもしれない。

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熱狂の東京ドームの翌日、僕はロンドンに戻った。
ギターを積んだ車を運転しスタジオ向かう。
アンプにプラグを差し、鳴らすギターはいつもと変わらぬ音だったけど、
ハートからつま弾く指先までの何かが変わった。
ギターが一段と愛おしく思えるのだった。


僕は毎日スタジオに通い、曲作りに励んでいる。
様々なミュージシャンとのジャムやセッションも積極的に行っている。
時にはギターを4本背中と両手に担いでセッションに向かう事もある。
ギターの弦を張り替えるのもずいぶん慣れてきた。
人のプレイにWow!と驚くのも楽しいし、誰かをWow!と驚かすのも楽しい。
日本にいる時はそんな当たり前のことを忘れかけていたような気がする。
まるでアマチュアに戻ったような気分だ。
今に見てろよ、という思いも含めて。


そしてついにモントルー・ジャズ・フェスティバルへの出演がアナウンスされた。

July 11, 2014
http://www.montreuxjazzfestival.com/en

このフェスに参加できることはミュージシャンとして大いなる名誉であると共に、プレッシャーでもある。

そしてもう一つ楽しみなのがCornbury Music Festivalだ。
大好きだった10ccやKid Creole,Simple MindsやSuzannne Vegaの名前と共に
ポスターに自分の名前が載ったのが嬉しい。

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この2つの夏フェスは自分を試す大きなチャンスだと思って、精一杯のプレイをしたい。


ロンドンにも暗黒の冬が終わり、ようやく春が来た。
桜によく似たアーモンドや、八重桜の花びらが春風に舞踊る。
青空との花々のコントラストが美しい季節だ。

日々の想いと、ロンドンの風景をまた、少しずつここに綴ってゆこうと思う。

駄文は重々承知ながらも、読んで頂ければ幸いです。

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『素顔の今井美樹を撮る』ツアーブックでカメラマン・デビュー!

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「布袋さんの撮る美樹さんはいつもナチュラルで素敵ですね!

 他では見れない美樹さんばかりです!」


との周囲のお世辞言葉を真に受け、


「そう?そうかなぁ!じゃぁ、今度のツアーパンフ、僕が撮ろうかなっ!」


なんて頼まれてもいないのに言い出したのはいいけれど、さて撮るぞ!

と気合いを入れてファインダーをのぞくと

彼女の表情は硬い。


「だっていつものあなたと違うんだもの」



そう。写真は気合いで撮るものではない。



僕も撮られる側としてたくさんのカメラマンの方と向き合ったが、

「いいですねー!クールです!カッコイイー!」と褒めちぎられるとイライラするし

といって無言で黙々とシャッターを切られても、沈黙に絶えられなくなる。

「レンズをグーッと睨んでください」と言われて目力入れればまた強面になるし、

背の高い僕を下から煽って「もっとアゴを引いてください」と引けばアゴもなくなるわけで...。

撮られていて気持ちの良いカメラマンとは

「まるで家族のように目の前にいることが当たり前に思える人」だ。

目の前にいるのが当たり前の僕が眉間に皺を寄せて執拗に粘り越しでシャッターを切れば、

「あなた、いつもと違うわよ」

と言われて当然だ。

いつもは「こっち向いて」とも言わず、気の向くまま一度だけシャッターを押すだけなのだから。


真っ赤なルージュの大きな口をガーッと開いて、顔をくしゃくしゃにして笑う。

一世風靡したその笑顔の持ち主は、当時を振り返ってこう言う。

「いつもの今井美樹スマイルをお願いします!」と言われてカメラの前に立つのが本当に苦しかった、と。

笑っているのが当たり前の人間なんていない。

人とはいつも悲しみや苦しみと共にいる生き物だ。

笑えと言われて笑えるものか!


「もうちょっと笑ってよ


目の前にそびえる187cmの存在感旺盛(?)なカメラマンからそう言われて苦笑いするしかない彼女。

地べたに這いつくばってもデカい。

こればっかりはしょうがない。

小さくなれないものね。小心者だけど。



『暗黒の季節』とも形容したくなる冬のロンドンにも心暖まる日射しがある。

そんな光を季節をモノクロームで撮った。


春風をカラーで捕まえた。


雨の日のレインコートや地元のパブでのランチ。

家族で旅行したローマの休日や初めてのサッカー観戦。

春の色彩溢れる街並の散歩や、庭でルーリーと和みながら僕のギターをつま弾く姿。


ようやくいつもの僕に戻れた時「誰も見たことのない今井美樹」を撮れたような気がする。



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5月1日。


今日は美樹さんのお父さんの13回忌。


朝陽に照らされて、母と義父の写真が笑っている。

二人に美味しいコーヒーを淹れてあげよう。

ロンドンでの笑顔の娘と孫娘を、見せてあげたかったな。



今井美樹コンサートツアー2014「Dialogue」の日程は以下の通り。

ロンドンのミュージシャンと共に里帰りです。

ユーミンのカバーと今井美樹の代表曲と、最強の笑顔をお届けします。




5/9(金) オリンパスホール八王子 [東京] 開場18:00 開演18:30


5/12(月) 仙台電力ホール [宮城] 開場18:00 開演18:30


5/14(水) オーチャードホール [東京開場18:00 開演18:30


5/15(木) オーチャードホール [東京開場18:00 開演18:30


5/17(土) 愛知県芸術劇場・大ホール [愛知開場17:00 開演17:30


5/21(水) 宮崎市民文化ホール [宮崎開場18:30 開演19:00


5/24(土) フェスティバルホール [大阪開場16:30 開演17:30


5/25(日) フェスティバルホール [大阪開場16:00 開演17:00




是非皆さんでお出かけくださいね!


グッズ売り場でお待ちしています!

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あ、通販先行販売もよろしくお願いします! (カメラマンより)

imaimiki-store.com

This is my true feeling.

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もし彼が本当にステージから姿を消してしまうなら

「最後のステージはせめて一曲でも 隣りでギターを弾かせてほしい」

そう願うのみ。

モントルー・ジャズ・フェスティバルを終えて

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「Don't Look Back」の精神で、自分の人生を振り返ることはせずいつも前を向い生きてきた。

振り返れば反省や後悔や悲しみや懺悔や、愛しきも苦しきも山ほどの思い出に心を乗っ取られ、
身動きが出来なくなり立ち尽くしてしまいそうだ。
そもそも30代、40代はやりたいことも山ほどあるし、振り返る暇などない。
しかし50代も過ぎると若気の至りをも受け止め謙虚な気持ちで、自分の歩んできた道、
そしてその道で出会い巡り会った様々な人々と紡いだ物語をふと振り返りたくなるものだ。
その時は単なる一つのエピソードでしかなかった小さな事柄が、後のストーリーと絡まって大きな意味を持つことになったり、
その時は死んでしまいたくなるほど悩み苦しんだことも時が経てば昨日の雨のように、今は消えて触れることすら出来ない一瞬の出来事であったことに気づく。

「ギタリズム」から25年

2014年10月。
BOØWY解散後、初めてのソロアルバム「ギタリズム」をリリースしてから今年でちょうど25年が経つ。
シンプルながらもカラフルで、一つのジャンルに捕われることのない自由な発想で極めた4ピースの美学。
いつも一緒だった仲間と別れ独りで歩き出すのは正直言って怖かったけど、「日本の次は世界だ!」と志しは高く、
ロンドンに渡り伝説のアビー・ロード・スタジオでレコーディングが行われた。
世界発売を目指し全編英語の歌詞にトライした。バンド時代はデモテープやコーラスなどでなんちゃって英語をたまに歌っていたものの、
英語を歌うのは想像以上に難しく、頭をかきむしりたくなるのだった。
アルバムは完成した。しかし世界の扉は開かなかった。

それから25年後の現在。
僕はここロンドンに暮らし、懲りずにまたあの時と同じ挑戦を繰り返している。
新作のレコーディングが始まってから6ヶ月近くが経とうとしているが
今回は世界発売に向けたくさんのアーチストやプロデューサーやエンジニアとの共同作業の日々だ。
最近はデジタルレコーディング機器の発達により、それぞれが小さいながらも録音に充分なスタジオを自宅に持っている。
僕はもらった住所をナビに入れ、ギターやアンプやペダルなどをミニクーパーのトランクに入れ、毎日あちこちのスタジオに向かって運転をしている。
ロンドンは渋滞が始まるとまったく動かなくなる。移動に往復4時間かけてのセッションもある。
そんな毎日にも慣れてきた。弦の張り替えもずいぶん早くなったし、セットアップや片付けも早い。
夕焼けのロンドンをカーラジオを聞きながら運転するのも悪くない。
フラッとパブに入り独りで夕食をとることも少なくない。
タクシーを使って、ローディーも雇って、ただスタジオに出向き演奏して帰ることもできる。
しかし英国でまだ一銭も稼いでいない自分がそれをするのは身分不相応だ。
街で以前乗っていたベントレーやアストンマーチンの姿を見ると眩しいけど、今の僕にはミニが似合っている。
相棒ミニがボロボロになるまで、行けるとこまで行こうと決めたのだ。

スティーヴ・オズボーンというエンジニア&プロデューサーとのセッションのため、バースという西洋風呂発祥の町にあるリアルワールド・スタジオを訪ねた。
「ギタリズム4」の録音のためスタジオのアコモデーションに1ヶ月近く滞在したのは20年前のことだ。
その頃は音楽業界もバブルとも呼べるべくCDが数十万、数百万枚も売れた時代だ。
宇宙船のような巨大で豪華なスタジオを一ヶ月もロックアウトしたなんて贅沢な話だ。今では考えられない。
時には前夜のパーティーが祟って二日酔いでスタジオをキャンセルしたこともあった。
部屋の小さな机に向かって「サレンダー」や「薔薇と雨」などの孤独な詩を書いた。
その頃僕は東京に帰る場所がなく、ホテルに暮らしていたんだ。
とそんなことも思い出す。
「ギタリズム4」に「孤独」という言葉が多いのは、そんな理由だ。

レコーディングが終わり、僕はスイスのモントルーにある「マウンテン・スタジオ」に向かった。
QueenやDavid Bowieのエンジニアで知られるデビッド・リチャーズにミックスを依頼したのだ。
スタジオの小さな扉を開くと洞穴のような部屋があり、古いNieveのコンソールや様々なエフェクターが壁にマウントされていた。
数々の名作を生んだそのスタジオで「薔薇と雨」のミックスをしている最中にノックもなく入り口の扉が開き、スキーウェアに身を包んだ男がスタジオに入ってきた。
髭をたくわえたDavid Bowieだった。
「ミックスを続けてくれ」と言うと卓の端に座り「薔薇と雨」を聴いていた。
「リバーブがとてもミスティーで美しいじゃないか。ファンタスティック!」と一言感想を述べてくれた。
リチャード氏はとても気さくで繊細な人だった。町中のレストランを案内してくれた。
カジノで並んでスロットもした。自宅に招いてくれたこともある。奥さんに怯えているような印象だった。
ある日はチャップリンの生家に我々を連れて行ってくれた。ヘリポートのある庭に先日マイケル・ジャクソンが訪れた、という。
広い壁に飾られた無数のチャップリンの写真。とてもダンディーな印象だった。
スタジオでの休憩時間中、リチャーズはかの有名なDeep Purpleの名曲「Smoke on the water 」にまつわる話を聞かせてくれた。
フランク・ザッパが演奏中に火事が起きて煙と水浸しになったという歌詞はこのスタジオの上のカジノで起きた実話なのだと指で天井を指すのだった。
ここモントルーには伝統のジャズ・フェスティバルがある。
マイルスやハンコックなどのジャズの偉人たちのみではなく、世界中からジャンルを超えた素晴らしいミュージシャンたちが集まって、街中で音楽を楽しむんだ。
布袋もいつか必ずここで演ってくれよ。その時は必ず観にいくからな!

Japan Dayと題された日本とスイスの国交150周年記念の催しがモントルージャズフェスティバルで開催される。
そしてそこに自分が日本を代表する音楽家としてリストアップされたことは身に余る光栄であると共に、今の自分の力を試す大きなチャンスでもある。

「Warm Up Gig@The Lexington Club」

今年の夏はまだ始まったばかりだが、すでにいくつかのGigやフェスに参加した。
ロンドンのThe Lexingtonという小さなパブでWarm Up Gig(こちらのバンドはツアー前に小さな会場でよくやるそうだ)は楽しかった。
200人入ると満杯の会場。ステージが始まると後ろにジグジグ・スパトニックのNeal XやApollo 440のNOKOなど友人達の顔が見える。
ステージ前を見下ろすと、なんと1メートルの距離にたまたまロンドン御滞在中の菊池武夫先生が立ち見でビートに合わせて身体を揺らしてくださっている。
(中学生の頃『BIGI』のロゴの入ったアイボリーのトレーナーを着て大人への背伸びをしていた頃を思い出すと、考えられないことだ!)
ロンドン在住の日本人の皆さんや英国の友人達、そして多くの関係者も駆けつけてくれて大盛況だった。
一人の英国人ファンは僕の参加したAsiaというバンドのCDにまでサインをしてくれと言ってきた。
一人ずつファンが増えていくのが本当に嬉しいしありがたいことだ。

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                                                                                 Photo by Kazuyo Horie
「Cornbury Music Festival」

そして次はオクスフォードシャーにあるCornburyという街での「Cornbury Music Festival」。
連日BBCで放映されていたグラストンベリーの規模の大きさに比べれば本当に小さなフェスティバルだけど、
敷地内はとても良いバイブレーションに溢れていて、家族や子供連れも多く、皆が笑顔で音楽を楽しんでいる。
僕の出番を待つ間、BBCや地方局のインタビューが飛び込みで入ってくる。
相変わらず英語のインタビューは苦手だがそうは言ってられない。
小さなチャンスを逃さない、をモットーに恥も捨てて必死に答える。
キッド・クレオール&ザ・ココナッツの演奏が終わり楽屋に戻ってきた。
オリジナル・サバンナ・バンドからのファンとしてはこれまた夢のような2ショットだ。

テントでメイクをしていると隣りのテントから話し声が聞えてくる。
「さて、今日のウォームアップはどの曲にしよう?」「Donnaだ」
との一声でアカペラコーラスが聞えてきた。
そう!隣りの楽屋は10cc!
文字通りすり切れるほど聴いたかの名曲「Donna」の生アカペラをテント越しに聴けるなんて!
(思わずiPhoneで録音してしまった)

キッド・クレオールと10ccに挟まれて出番を待ち、いよいよ本番。
さっきあがった雨がまた降ってきて心配するも、英国の天気は女心より秋の空より変わりやすい。
案の定3曲目のBattleが終わった頃にはステージの上に大きな虹がかかったという。
観客の9割以上が僕を知らない、完全にアウェイの状態でのステージは逆にやりやすかった。
僕に対する固定観念がないオーディアンスは、ありのままの自分を受け止めてくれる。
最初は半信半疑だった表情が曲が進むにつれ高揚し、最後には大きな拍手と声援に変わるその瞬間が好きだ。

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                                                                                 Photo by Brian Rasic

「Montreux Jazz  Festival」

そしてモントルーへ。
本番2日前に到着したレマン湖畔は山の気候も手伝って気温が低く、激しく冷たい雨も止まず、
フェス会場敷地内の各国料理の出店も人影も少なく淋しい印象。
夜中に野外で演奏する僕らの前に果たして観客が集まるのか不安になる。
前日の我々と同じ演奏時間11:30pmにはステージの前にお客さんは10人くらいしかいなかった。
これは過去最低動員記録を作ってしまうか?などど気弱になるも娘が
「私が10人分拍手してあげるから大丈夫だよー!」と元気づけてくれる。

モントルーは小さな街だ。
街を歩きながら20年前に訪れた時のことを思い出す。
驚くほど物価が高く普通のサンドイッチが¥2500くらいしたのに驚いたものだ。
持っていったカップラーメンがありがたかったのを思い出す。
街並は少しビルが増えたものの、当時とあまり変わらず。
マウンテンスタジオはどこだったっけ?と小道を抜けてゆくと、カジノのネオンを見つけた。
カジノの角を右に曲がる。
そう、そこに小さな扉がある。
その横には駐車場がある。
そう、そこにDavid Bowieは自ら運転してきたシルバーのゲレンデワーゲンを停めた。
僕は開かないと判っていたが、ドアのノブを回してみた。
カチ、と音がして僕の記憶の扉が開いた。
「布袋もいつか必ずここで演ってくれよ。その時は必ず観にいくからな!」
二人のデヴィッドさんに話しかける。
「I'm back. 帰ってきました」
一人は昨年ニューヨークで10年振りのアルバムを作り、世界のファンを喜ばせた。
もう一人のデヴィッドは天国にいる。
癌だったそうだ。

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フェスティバルではMassive AttackとLaura Mvulaを観た。
どちらも感動的なステージだった。
Laura Mvulaとは終演後にお会いできた。とても知的でチャーミングな人。
いつかコラボレーションができたらいいね、と握手を交わした。
ホテルのロービーでミーティングをしていると上原ひろみちゃんとサイモン・フィリップスが到着した。
彼女はいつも世界を飛び回っている。ロンドン公演にお邪魔した際「モントルーで一緒に演れるといいね!」
と言っていたのだが、今回は無理そうだ。いつか必ず。

思い出と語り合ったり、フェスを楽しんでいるうちに僕らの出番の時間が近づいてきた。
雨は小降りになっている。
僕らの前はブルーノート・ジャズ・オーケストラの皆さんが熱演を繰り広げていた。
残念なことに彼らは持ち時間を20分もオーバーし、僕らのセッティングの時間が大幅に削られた。
1時に演奏を終えなければ電源を消す、と主催者側からも強く言われ、流れによっては2曲カットしなければならなくなった。
大勢が参加するフェスで持ち時間を守らないのはとても無礼なことだ。

しかし「Show Must Go on」
司会者が「HOTEI !!!」僕の名前を叫び、定刻通りにステージは始まった。
モニターの設定も間に合わず、一曲目は自分のギターがほとんど聞えない状態でプレイするしかなかった。
しかしこうしたアクシデントに飲まれてはいけないということを今までの経験から知っている。
アクシデントは楽しむもの!
どうにか2曲目で気を持ち直し、動揺を隠してフランス語で挨拶をするもボンソワー、をボンジュールと間違えてさらに動揺。
「おそらくここに集まったほとんどの皆さんは僕の名前すら知らないでしょう。
しかし次にお送りする曲はきっと多くの方がご存知だと思います」
と勝負曲「Battle without honor or humanity」を紹介しカウントが始まりギターをヒットするも音が出ない!
ギターテックのアルを見ると顔が真っ青になっている。
後ろに積んだKemperというデジタルアンプを見ると電源が消えている!
現地のスタッフが電源コードに足を引っかけて抜いてしまったらしい。
慌てて電源を入れ直すも、デジタルのホーム画面が立ち上がるまで2分くらい時間がかかる。
テーマが始まるまでの32小節のイントロは導火線のように過ぎてゆき、
あと10秒、あと5秒、あと3秒!
と、その瞬間奇跡的にアンプは立ち上がり、テーマの出だしに間に合った!
そしてこの曲が始まると会場にみるみる人が集まってきて、最後は2000人以上もの観客が身体を揺らしはじめた。
そこからバンドとオーディエンスが一体となり、とても自然で、とても暖かい時間を過ごすことができた。
最後の曲が終わっても拍手は鳴り止まず。
司会者が出てきて「もう一曲やりませんか!!?」と僕に問いかける。
時刻は1時3分前。
「いいえ、僕らはやるべきことをすべてやりました」
日本人は時間を守るんです。

バックステージも興奮に包まれていた。
娘は「お客さんたーくさんいたよー!」と笑っている。
バンドは皆見たこともないぐらい興奮していた。
「モントルーで最高の演奏が出来たことが幸せだ!」と皆が誇らしそうだった。
東京からきたマネージャーもロンドンのマネージャーも
今回から加わった新しい「HOTEI WORLD TEAM」のみんなが笑顔で高揚していた。
天国のデヴィッド・リチャーズも拍手してくれたかな。
ローリング・ストーンズとの共演と並び、今年の、いや、我が人生で忘れることのない
最高のステージだった。

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ステージでしか生むことの出来ない「今」。
僕はこの瞬間を味わいたくて生きているのだと思う。

サーファーにとっての波、ランナーにとっての過ぎ行く景色、科学者にとっての小さな気づき、
親と子の何気ない会話、画家にとっての一筆、料理人にとっての一味、噺家にとっての間、
釣り人にとっての空気の揺れ、答えだけがすべてじゃない。

先日友人が全身全霊を賭けて挑んだアイアンマンレースでゴールが出来なかったと聞き、
僕はこうメッセージを送った。

「またゴールに向けてスタートできるんだね。おめでとう!」

ステージからすべてを学んできた。
これからもたくさんの「今」と出会うために、自分磨きの精進を重ねていきたいと思う。

52才にして、振り出しに戻る。
これからは振り返るヒマなど当分なさそうだな。

前進あるのみ。

応援してください。

いつまでも!

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                                                                           2014 7/12 レマン湖にて






















New Album "New Beginnings"がリリースされました。

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このアルバムは世界への挑戦に全身全霊をかけて作った勝負作です。

まずはホームタウンの日本に向けJapan Editionがリリースされました。

今までとは違う、だけど今までで一番僕らしい、

様々な冒険と実験、そしてロマンチシズムに満ちた自信作です。

長きに渡り応援してくださっているファンの皆さんはもちろん、

今まで僕の音楽に興味なかった方々にも必ず楽しんでもらえる作品だと自負しています。

14才の時、初めてロックのレコードと出会ったあの時の自分のように、

中学生や高校生にも聴いてもらいたいな。

ロックがまだギラギラしていた時代のグラムロックや、壮大なプログレッシヴ・ロックを聴いていた、

そして今もロックを愛して止まない大人にも是非聴いてもらいたい。

ブレードランナーやDIVA、タランティーノのパルプ・フィクションやKILL BILL、

デヴィッド・リンチのブルー・ベルヴェットやツインピークスなどのサントラが好きな映画音楽ファンにも聴いてほしい。

そして、音楽を作り、伝えることの難しさを知っている日本のプロのミュージシャンやアーチストにも聴いてほしい。

歌うことをやめましたが、どの曲も言葉以上にギターが歌っていると思います。

こんなアルバムが、ずっと作りたかった。

今僕はようやく新たなスタートを切れたという思いでいっぱいです。

どうか一人でも多くの人の耳に、心に、届きますように。

もうすぐツアーのため、日本に戻ります。

最新のHOTEIを楽しみにしていてください。

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リハーサル中!

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リハーサル、順調に進行中!

ツアー、たまらなくカッコいいよ!

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